2009年5月28日

らくごの語

                       芽亜利



                   錦

                      シーズニング

                   ゴーフル


最近、枝雀の声しか聞いていない。
「一生懸命のおしゃべり」を生身の人間同士は会話も無く聞いている、と言うより、私は聞かされている。
落語は頭の中のお絵かきゲームだと思う。イメージできなければ、可笑しさが分からない。落語家は聞き手のイマジネーションを描き立てようと、話しながら動きをつける、が、CDで聞いている私たちは、何度も聞いてオチを理解する。
ツールが言葉であっても、伝わることは難しい。ダイレクトな表現で無いと頭に絵を描けない。聞いていても話が長いと飛んでしまう。
これを作品に置き換えると、感覚の質を伝えるわけだから(一番素直な気がするが・・)、個人差で若干のズレが生じる。ズレがおもしろい場合もあるが、これをどう縮めるかは、人によって様々だ。その一つがデッサンである。
デッサンの本質は、目の前の現象をどれだけ忠実に伝えられるか、もしくはいろんな尺度からのアプローチだと思う。

朝、テレビで風月堂のゴーフルの工場見学をやっていた。芸人が様々な工程で試食を繰り返し、最後にオリジナルゴーフルを作って食べるという、どこを切っても普通のレポートなのだが、
夕方、ウチにゴーフルがあるという現代落語。