2009年11月2日

作品についての考察

石榴

290℃


私が表現したいと思っている世界は物質ではない。

昔、版画の学部時代の卒業制作で、『人の優しさをモチーフにしたい』と言ったら、そんなのはモチーフにならないよ、と大先生に言われた。そこから2年間、版画に准じてみようと思ったが、たどり着いたのが鏡面とエナメルの質感で、その質感を使って修了制作を行ったら、「約束が違う」と、また大先生にお叱りを請うた。作品は、反発しようなどとはこれぽっちも思っていなかったのだが、表現したいことを突き詰めると『それ』にどうしても行き着いてしまい、『それ』をカタチにすると、もはや技法やら方法やらは問題ではなくなってしまった。先生からすると、好き勝手やりやがって、と思ったに違いない。確かに否定は出来ないが、気持ちが晴れない毎日を送っていたのも事実だった。
2年前にガラスという素材に逢った。初めは、興味すらなかったが、熱で溶けて成形する工程がとても面白く、やってみると見る見るうちにハマった。ガラスでデザイン化されたものが作れたら・・と思うが、いざ作品となると、結局、『それ』に戻ってしまう。
『それ』とは、どんなものなのだろうか?

作家の内藤礼さんの作品に出会ったときに衝撃が走った。
愛知県の佐久島という小さな島に内藤さんの舟送りがあると聞いて、ちょうど4年前、是非見たいと思って出掛けた。作品は舟送りだけではなく、貝で染めた綺麗な布が秋晴れにゆらゆら揺れていて、「精霊」と名づけられたその布は、言葉に出来ない心に響くものがあった。わたしは、作品を見ながら、全く別のことを想像していた。内藤さんの作品は視覚的なものではないのではないか。直感的に、この人はすごいと思った。実際、出会って話して握手までしたけど、作品と本人のイメージが恐ろしいほどピッタリで驚いた。握った手は、冷たいながらも真に温かさが感じられた。その後、追っかけと化したことは言うまでもない。
作品は熟するまで出してはいけない気がするが、とりあえず客観的に見てみようと、中塚邸で展示を行った。結果的に、客観視することなど100%不可能で、作品はまだまだ途中である。視覚的なものへと変貌を遂げた瞬間に、自分の見栄なのか格好付けなのか小奇麗さなのか、妙な雑念が入った。しなやかに重心を変えようと思うが、まだその筋肉が出来上がってないらしい。作品は人の行き方に左右される、と信じて、マクロビオティックにも取り組み、食事の摂りかたにも気を使っているが、実際のところ。習慣のように植え付けられた凝りものが、ひょっとすると、全く別のアプローチがあったりなんかして、と、量子力学なんてな本を読み漁る、秋の夜長。